伊豆 の 踊子 あらすじ

私 一校生で二十歳、孤児で憂鬱な気持ちから一人、伊豆の旅に出て旅芸人一行と旅する。 踊子(薫) 旅芸人一行の踊子で十七歳に装うが、まだ十四歳の無垢で天真爛漫な美しい子ども。 男(栄吉) 旅芸人一行の座長で、薫の実兄で二十四歳、実家は兄が継ぎ事情があり芸人になる。 千代子(上の娘) 旅芸人一行で栄吉の女房で十九歳、旅の途中で流産と早産で二度、子を亡くしている。 四十女(おふくろ) 旅芸人一行で、千代子の実母で、栄吉の義母、薫に芸を教えながら厳しく育てている。 百合子(中の娘) 旅芸人一行で、ただ一人家族ではなく、大島で雇われた芸者ではにかみ盛り。. 作品の起源としての作者の存在を絶対的なものと考え、最終的には、作品の意味を〈作者〉という特定の人格に還元する――言いかえれば、作者自身の意識や体験などと小説言説との関わりを究明すること. それでは逆に、薫は「私」のことをどう思っていたのでしょうか? こちらは確実に恋心をいだいていたことがうかがえます。まず「私」の社会的ステータスに興味が湧いたはずです。なにしろ当時の一高生です。現在の東大生をはるかにしのぐエリート中のエリートです。「私」は、学生帽に学生カバンという一目で一高生とわかる見かけであり、旅芸人一座も、みな一高生が超エリートであることを理解している記述があります。薫もまた「私」に興味をもったことは確実でしょう。 加えて「私」には教養があり、難しい漢字も知っていて、尊敬できる存在でもあります。しかも大島といった田舎ではなく大都会である東京に住んでいます。さらに一緒に旅をしたいと言うほど旅芸人たちに親近感をもつ「私」に、薫も心を許したことが分かります。 湯が野の木賃宿でのできごとで、薫が好意をもっていることをうかがわせる描写があります。薫が「私」のためにお茶を運んできたときに「私の前に坐ると、(踊子が)まっ赤になりながら手をぶるぶる顫わせるので茶碗が茶托から落ちかかり、落すまいと畳に置く拍子に茶をこぼしてしまった。あまりにひどいはにかみようなので、私はあっけにとられた」とあり、その場にいた「四十女」が「まあ! 厭らしい。この子は色気づいたんだよ。あれあれ. あくる朝、起きたばかりの私は、宿に来た男を誘い湯に行った。 そうして私は昨日の夜のことを男に聞いた。男は「昨日の客はこの土地の人で馬鹿騒ぎするのでおもしろくありません」と言った、そして「向こうのお湯にあいつらが来ています」と言われ、私は向こうの共同湯を見た。 突然裸の女が走り出してきたかと思うと、両手をいっぱいに伸ばして何か叫んでいる。真っ裸だ。それが踊子だった。若桐のような足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐き、喜びでことこと笑った。「子供なんだ。」 踊子が娘盛りのように装わせてあるので十七、八に見えていたが、とんでもない思い違いをしていた。 私は部屋で客の行商人と碁を打っていると、流しがやってきた。私は手招きで呼んだ。 芸人たちは、今夜の仕事はもう終わりにして、五目並べなどしながら部屋で遊んで行った。. 「伊豆の踊子」は1926年、大正15年の作品、作者の伊豆での旅行体験を元に描かれた小説です。 あらすじ 「私」は伊豆半島旅行で旅芸人(男1名女4名)と同行になります。若い踊り子にほのかな恋心を抱きます。彼らと行動をともにしてゆくなかで、孤児である私の心は癒されます。彼らと別れ. 伊豆の踊子 あらすじ. 川端 康成『伊豆の踊子』の感想・レビュー一覧です。電子書籍版の無料試し読みあり。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。. 『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は川端康成の同名小説を原作とした1974年(昭和49年)12月公開の日本映画。 同名小説の6度目の映画化作品で、 山口百恵 映画主演第1回作品である。.

そして「私」の旅芸人への興味が、好意にかわり、伴に旅しながら人間らしい気さくな会話を交わしていくことで、一行から「私」も一員として迎えられる。 孤独根性の憂鬱な「私」は、旅芸人との人間らしい繋がりで次第に性格が変わっていく。 「いい人ね」「それはそう、いい人らしい」「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね。」そんな感情の傾きを、ぽいと投げ出したような言葉が行きかう。そして「私」も、自分がいい人だと素直に感じることができるようになる。 踊子が言って、栄吉が肯く。野の匂いのある好意を「私」に向けられる。ひとつひとつの言葉が、こころに届いてくる。旅芸人一行たちにも、踊子にも、虚言や虚像は見破られ見抜かれる。本心から見せる言葉や態度は、「いい人ね」と自然に口からでる。 いい人と踊子に言われた満足と、いい人と言った踊子に対する好意。修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え、湯ケ野、下田へ向かうこの八日間の中で、急な山道や海を望む道、雨の日や照る日など自然が、天空から旅芸人一行と「私」を包んでくれている。 津々浦々に伝承される日本の祭りやその担い手の人々、あるいはこの人々を芸人と呼び、またマレビトと呼べば、. 『伊豆の踊子』のあらすじ 『伊豆の踊子』のあらすじ① :旅芸人一座との出会い. 」と言っていますので、この時点で「私」に対して淡い思いがあったことが分かります。 ところが、薫はまだ14歳です。当時の「数え」で14歳ですから、満年齢でいったら13歳、中学一年生か二年生になります。変声期の途中というくらいの若さです。性的な魅力を「私」に感じたのではありません。精神的な淡い恋心といったようなものです。 しかも薫は大正時代における13歳の処女です。初潮は始まっていたでしょうが、性教育を受けたわけでもありませんし、理解していたとも思えません。デートの経験もなく、ましてやキスの経験もありません。まったくのプラトニックでしか表現できないような淡い感情だったということです。 薫ができる精一杯の求愛行動は、「私」へのこまやかな気配りで思いを間接的に伝えることです。「私」に座布団を裏返して出したり、袴の裾についた埃をはらったり、竹杖を二度も探してきて渡したりしてそれとなく気持ちを伝えました。言葉で思いを伝えるには、どうにも経験不足だったのです。 好きという気持ちを直接的な恋愛行動に変換. その後はなんと10年間通い、伊豆の踊子を始め、多くの作品を湯本館で執筆。 踊子の一行と湯ヶ野に着いた私が泊った宿 明治十二年創業、小説、映画で登場する宿泊処の福田家。 映画伊豆の踊子のロケが行われた有名な宿。 有料で資料などを見学出来る。. 昭和初年の秋。一高生の水原は、先輩である小説家・杉村を訪ねて伊豆路へやってきました。 そこで旅芸人・栄吉の一座と知り合い、一緒に伊豆路を下ることになります。 一座の踊り子の薫の美しさに惹かれる水原。.

最後の「何も残らないような甘い快さ」というのがものすごく心に刺さりました。別れに、「甘い」という言葉を使うのが本当にすごいと思います。さすがノーベル賞作家というだけあって、言葉選びのセンスが他の作家とは別格です。 川端のハイセンスな文章は、一度目にしたら忘れられなくなる中毒性があります。また、踊子が何も言えなくなってしまうのもいじらしいです。 きっと、主人公がいなくなってしまうのは寂しいけど、自分の身分で引き止めるのはおこがましいし. 『伊豆の踊子』再考―葛藤する〈語り〉と別れの場面における主語の問題― 三川智央 1. この短編小説の主人公は「私」(=川端康成、数えで20歳)です。当時は、旧制一高(現在の東京大学教養学部)の学生です。「私」は学校を休んで修善寺から下田までの伊豆旅行に出かけます。「孤児根性」で自身の性格がゆがんでいると思い、その劣等感を払拭したいと願っての一人旅でした。「高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた」ので、だれでも一高の学生であると身なりで判断できます。 修善寺温泉に一泊、湯河原温泉に二泊して、4日目に天城の坂道に至りましたが、そのときすでに「私」の胸は高鳴っていました。なぜなら旅の途中で知り合った「旅芸人」、とくに踊り子である「薫」に会えると思ったからです。当時、旅芸人は蔑まれる存在でしたが、「私」は興味をもっていたのです。このときまでに二度道中で見かけていて、「私」の願い通りに三度目は雨宿りする峠の茶屋で出会います。 旅芸人の一座は、20代の男性(栄吉)、踊り子の薫(栄吉の妹で、17歳くらいに見える)のほか、若い女性2人(栄吉の妻の千代子と雇い人の百合子)と40代の女性(千代子の母親)の5人(+子犬一匹)です。「私」は声をかけたかったのですが、勇気が出ずにやり過ごします。 ところが途中、旅芸人の栄吉の方から話しかけられます。話が弾む中、「私」が「下田まで一緒に旅をしたいと思い切って言った」ところ、旅芸人一行も喜んで承知してくれました。会話の中で、彼らが大島の出身であること、栄吉の年齢が24歳であることなどを知ります。 その夜、一行はお座敷に出ますが、「私」は「踊子の今夜が汚れる(金銭を介した売春をする)のであろうか」と妄想し悩みます。なかなか寝つけません。 翌朝、「私」は栄吉と温泉に入りますが、川の向こう岸には別の共同湯があり、その湯気の中に薫の姿を見つけます。「仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな恰好で立ち、両手を一ぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もないまっ裸」でした。このことで、薫がまだ子どもかつ「処女」であることを悟り、「私」の疑念は晴れて「微笑がいつまでもとまらなかった」のでした。 翌日、湯が野で落ち合う約束をしていたので、旅芸人の一行が泊まる宿に行きます。そこで、「私」は薫と五目並べをして遊びます。 旅芸人一行と時間を過ごす中で、「私」は「親. 二十歳の私は、自分の性格が孤児根性で歪んでいると悩み、その息苦しい憂鬱に耐えきれずに一人、伊豆の旅に出る。途中、旅芸人と出会い旅情が身につき、天城峠の茶屋で一緒になり下田まで旅を伴にする。 旅芸人を見る世間の人々の目は厳しい。人間は境界をつくることで安心している。 伊豆 の 踊子 あらすじ 蔑みと好奇が入り交る旅芸人はやっかい者である。天城峠の北口の峠の茶店の婆さんは、今宵の踊子たちの宿を尋ねる私に「あんな者、どこで泊まるかわからない、客があり次第、どこにでも泊まる」と軽蔑する。煽あおられた私は、それならばと、「私」の部屋に泊めようと誤解をしてしまう。 湯ケ野の温泉郷でも、私が泊まった純朴で親切らしい宿のおかみさんが「あんな者に御飯を出すのは勿体ない」と言う。 そして港がある下田の村の入り口には<物乞い、旅芸人、村に入るべからず>と立札がある。 下田の甲州屋は、旅芸人や香具師やしが多く集っている。下田の港は、そのような人々の往来地点でもある。この時代、旅芸人は身分の低いものとしての扱いだった。 旅芸人たちとの語らい、それは四季の自然の中から出てくる素直な言葉だった。 しかし「私」は、旅芸人の一座に、家族と. 文豪の作品は、あらすじだけ書くと、全然たいした内容じゃないんですね。 大切なのは、「文章」なのです。 「抒情的」「透明感」というキーワードで語られる川端康成の文章のよさを感じるには、やはり読んでいただくしかありません。 この小説の場合、青春小説の肝ともいえる「私」のゆれる恋心の描写が素晴らしいのですよ。 特に、「踊子」にだんだんと惹かれていく、そわそわと落ち着かない様子が、恋をした人ならきっとわかると思います。 そして、お別れのとき、来ないと思っていた踊子が、昨夜の化粧も落とさずに自分を見送りに来てくれたこと、まだ幼く寂しさを言葉にできず、「私」の言葉にうなづくことしかでいなかった「踊子」の純粋さに、ズキューンと胸を打たれ、別れを哀しむ「私」の気持ちが、すごく美しい文章でつづられています。 短い作品ですので、是非是非、ご一読を! ↓↓↓. 伊豆 の 踊子 あらすじ 「私」は薫を好きだったのかという問いへの答えは、「はい」でしょう。ただし、小説内では薫への感情は二段階に分かれています。共同湯で真っ裸になって手を振る姿を見て、「私」は薫が子どもであること、処女であることを知りますが、そのシーンの前後で、薫への感情が劇的に変わります。 それまでは薫のことを女性として好きでした。しかし、入浴シーンの後は好きという感情がだんだんと薄れてきます。川端自身の言葉を使うと「いとおしさ」あるいは「感傷」に変換されていきます。 まず前半の薫への気持ちを分析します。たしかに、当初は薫に対して恋愛感情を抱いていました。峠の茶屋で三度目の再会をするのですが、この茶屋で会えるのではないかと期待に胸を躍らせていますので、最初の2回ですでに薫を気に入っていたということになります。 好きになった理由はふたつ考えられます。ひとつは、薫が「踊子」であった点です。現在でいえば派手な衣装を着て踊るアイドルのような存在です。それを二度目撃しています。二度目の機会では「踊子が玄関の板敷で踊るのを、私は梯子段の中途に腰を下ろして一心に見ていた」とあるので、そのときの踊り太鼓をたたく姿に惹かれたのでしょう。アイドルのライブに行って好きになる感じといえばいいでしょうか。 第二に「踊子」の見かけです。天城の峠の茶屋で出会うこの場面で、踊り子の見た目は次のように描写されています。 つまり、現代風にいえば、薫は盛りヘアをし、小顔で、引き締まったバランスの整った顔立ちであり、二次元的なアイドルっぽい女性に見えたということです。つまり外見がたいへん魅力的で目立つ存在だったわけです。 それにしても、好きになるのが早いと思いませんか? ほぼ一目惚れ状態です。そこで参考になるのが、川端の美意識です。川端は前述した「少年」という随筆において、次のように書いています。 このように、川端には自身の外見へのコンプレックスがあったようです。その裏返しとして、肉体を含めた見かけの美しさにあこがれを持っていたことになります。薫の躍動感ある肉体美と「凛々しい」容姿に魅せられた結果、言葉を交わすことなく惚れてしまったのです。 ところが小説の後半でその感情は一転します。まず薫が処女だということを知ります。一時「17歳の処女」であると思っていましたが、やがて年齢は17歳ではなく14歳であるということがわかりま. 主人公の私は、自分が孤児であることからくる「孤児根性」を克服しなければならないという思いに駆られ、 その息苦しさに堪え切れず1人で伊豆に出かけます。 そして、道中で出会った旅芸人(旅をしながら芸をしてお金を稼ぐ人のこと)の一座の17歳くらいの踊子に惹かれ、伊豆半島の南部に位置する下田まで一緒に旅をすることになりました。 伊豆 の 踊子 あらすじ 一座を率いているのは踊子の兄で、彼らは家族で旅芸人をしていました。私は、泊まった宿で湯に浸かっているとき、踊子が川の向こうの湯殿から無邪気に手を振っているのを見ます。私は吹き出し、彼女は大人びて見える子供なのだと思いました。. 小説「伊豆の踊子」のあらすじを誰か教えて頂けないでしょうか?お願いします 第一高等学校の二十歳になる学生(私)が伊豆へ一人旅をし、天城越えの途中、峠の茶屋で旅芸人の一行と出会います学生は、一行の中にいた年齢よりも少し大人びた一人の踊子に次第に魅かれていきます下田迄.

モーニング娘。新春!LOVEストーリーズ・あらすじ: 1st. . 伊豆の踊子は、40ページ弱の短編小説です。 7つの章に分かれていますが、ずっと伊豆の温泉地を旅しているので、つながっています。 主人公「私」の一人称表記なので、とっても読みやすいですよ。 私は、伊豆には行ったことがないのですが、伊豆の温泉やこの辺りの地理に詳しい人は、もっと楽しめると思います。. 伊豆の踊子(1974)の作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。川端康成原作『伊豆の踊子』の六度目の映画化で一高生と旅芸人の. 伊豆の踊子 の解説・あらすじ、映画レビューやストーリー、予告編をチェック! 上映時間やフォトギャラリーなども。. 映画『伊豆の踊子(1974)』ネタバレ・あらすじ・感想。山口百恵&三浦友和初共演(その後結婚)職業差別と女性差別が激しかった時代の純愛と悲恋。映画『伊豆の踊子(1974)』のあらすじ・ネタバレ・解説・感想・評価から作品概要・キャスト、予告編動画も紹介し、物語のラストまで.

See full list on wabisabi-nihon. 1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号(第3巻第1号)に「伊豆の踊子」、2月号(第3巻第2号)に「続伊豆の踊子」として分載された 。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月20日に金星堂より刊行された 。. 小さな頃から何度も読んだことのある作品。 この踊子の純粋な美しさは昔も今も魅力的にうつります。 女性から見た感想はどうなのだろう。. 伊豆 の 踊子 あらすじ 旅先での薫との出会いがこの小説の主題のひとつですが、それではそもそも「私」がなぜ旅に出たのかを考えなければなりません。 『伊豆の踊子』では、育った環境のせいで「私」の性格が「孤児根性」でゆがんでいて、その劣等感を払拭したいがために一人旅をしたと描かれています。本当でしょうか? そこで問題となるのは「孤児根性」なのですが、これが何を指しているのかはっきりしません。たしかに、川端は1歳のときに父親を亡くし、翌年には母親も亡くなっています。その後は祖父母の家に預けられました。しかし、亡くなった父親は医師でしたし、祖父母の家は大地主で、施設に預けられたわけでも経済的に困窮していたわけでもありません。 また小さい頃は病弱でしたが、勉強は非常にできたため高校は首席で入学しています。なにしろ東京帝国大学に入学できたわけですから、庶民感覚からすると恵まれた境遇でした。「孤児根性」の意味するところが、いまひとつ私たちには理解できないのも当然なのです。 そもそも、この「孤児根性」なるものがあったとしても、長年川端の心中に存在していたわけで、20歳のときに突然生まれたものではないはずです。ですから、『伊豆の踊子』の中で「孤児根性」が理由で川端=「私」が伊豆旅行をしたというのは、本当の理由ではないようです。「なぜ20歳のときに突然旅に出たのか」の答えには到底なりえないからです。 実は、川端は「少年」というエッセーで当時の伊豆旅行について触れ、旅の動機を次のように書いています。 つまり、本当のところは、一高の寮での折り合いの悪さが一人旅に出てみようと思いたった理由のようなのです。どのように「勝手が違つた」のかはわかりません。友人関係が希薄だったのか、「大阪平野の田舎しか知らない」川端が東京に来て馴染めなかったのか、上級生にいじめられたのか、それとも寮の隣の寄宿生がうるさかったからなのか、さらには遠距離恋愛中の恋人に会えないつらさがあったのか・・・とにかく一時的にでも寮から離れたい一心だったわけで、それは離れれば解決する問題でもありました。反面、孤児根性は旅をしたところで、簡単に解決するものでもないのです。 伊豆 の 踊子 あらすじ 小谷野敦氏が指摘(年)するように、川端は若い頃は自分より目下の人を「蔑むような調子」があったようで、非常にプライドが高い一面があったようです。 おそらく寮では、そのプライドが. どうも! 見取り図というコンビで漫才をさせていただいているリリーという者でございます! いつもは連載「リリー先生のアート展の見取り図. 伊豆の踊子」。秋。20歳の一高生である「私」は、伊豆の旅の途中にあり、天城峠に差し掛かる。 道中、「私」はぐうぜん出会った旅芸人の一座の踊子に惹かれ、一座と共に下田まで旅することになる。. ストーリー『伊豆の踊子』 出演者:後藤真希、保田圭、辻希美 他 原 作:川端康成 脚 本:寺田敏雄 あらすじ: 昭和の初め、伊豆の温泉町を回る旅芸人の一座があった。. その翌日の早朝、川崎と旅芸人一家は下田へと旅立ちました。薫はその道中、あの女郎の遺体が入ったと思しき棺を目にしますが、しばらく見つめた後、すぐにその場から走り去りました。 道中、薫は川崎との旅をおおいに楽しみました。川崎との何気ない会話を楽しんだり、川崎のために杖を用意したりと、薫は始終笑顔を見せました。川崎もまた薫の好意に感謝し、無邪気な薫に癒されていました。薫がご機嫌なのには理由がありました。下田に着いたら、川崎と一緒に活動写真を観に行く約束をしていたのです。この日は座敷の予定は入れておらず、薫は川崎と一緒に過ごす夜を心待ちにしていました。 ところが下田に着くと、突然その夜に座敷の予定が入ってしまいます。薫は川崎との約束を優先させようとしますが、お芳に手厳しく怒られてしまいます。すねた薫は宿から出ようとしますが、そのときに栄吉とお芳の会話が耳に入ってしまいます。このとき、薫は二人の会話から学生と踊子との恋はかなわぬ恋であることに気づきました。.

『伊豆の踊子』(1974)は川端康成の小説を映画化した6度目の映画化作品。かおる役として出演したのは、山口百恵。彼女にとっては映画主演第1回作品でした。対する川島役には、後に数々の話題作でもコンビを組む三浦友和でした(1980年に、百恵は正式に芸能界引退し、三浦と結婚式を挙げ. See full list on hm-hm. 主な登場人物は、主人公の「私」と旅芸人一座5人の計6人です。 ●「私」・・・主人公、東京の学生 ●「踊子」・・・薫(14歳の少女) ●「栄吉」・・・踊子・薫の「兄」 ●「千代子」・・・栄吉の妻(19歳) ●「四十女」・・・千代子の母 ●「百合子」・・・大島生まれの雇いの娘(17歳). 私:東大を目指す学生が行く一高(いちこう)に通う20歳の主人公。伊豆に旅に出て、そこで出会った旅芸人と行動を共にする。 踊子:14歳で、家族経営の旅芸人の一員。主人公が17歳くらいだと思うほど、大人びた見た目をしている。. 「一言で言うと」に、「身分を超えた恋」と書きました。あらすじでは触れませんでしたが、主人公と旅芸人たちの間には、圧倒的な社会的地位の差があります。 主人公は一高の学生ですが、一高というのは東大に行く前に通う学校です。そしてこのような高等教育を受けられるということは、未来の日本を担うエリートであることに加えて、莫大な財産の持ち主であることを意味します。 一方で、旅芸人は物乞いと同等の扱いを受けており、社会的な地位はものすごく低いです。そのため、本作では旅芸人への差別があからさまに描かれていたりするので、教科書に載るときはそのような部分はカットされることも多いです。 しかし『伊豆の踊子』のすごいところは、身分の高い主人公が、そういった偏見を持たないでフラットに旅芸人と接しているところです。こうした心が、主人公の歪んだ性格を修正したのだと思います。.

See full list on shinsho. 伊豆の踊子(1963)の作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。川端康成原作四度目の映画化で、「若い人(1962)」の三木克巳と西河. 私は、旅芸人たちとの身分の違いを気にすることなく、彼らと交流します。人の温かさを肌で感じ、私は自分の孤児性格が治りそうだと悟りました。 下田に着いたとき、私は踊子とその兄嫁を映画に連れて行こうとします。しかし、兄嫁の母親が反対したため、私は1人で映画を観に行くことにしました。 その最中、遠くからかすかに踊子が叩く太鼓の音が聞えてくるような気がして、私は思わず涙を流しました。. . 踊子はなぜ、栄吉に連れられ旅芸人の一行にいるのか、芸を義母から教わっているのか、伊豆を旅する一行の素性には事情がありそうだ。 彼らは、差別の眼を承知の上で、定住し職を持つ人々とは異なり漂流しながら芸を見せる生き方をしている。.

動画視聴で楽天ポイント貯まる楽天TV(Rakuten TV)!【伊豆の踊子】ラブストーリー映画の邦画。【あらすじ】幼くして家族を失い、孤独な身の上である一高生の水原は、修善寺にいる先輩の小説家・杉村を訪. という風に心の中で悩んだ結果、何も言えなくなってしまったのかなと思います。 身分が違いすぎるせいで成就しない淡い恋でしたが、そのおかげで他で見ることができないくらい、切ない物語に仕上がっています。. 『伊豆の踊子』は、「説かず、描かず」の極致の作品であるので、すべての語句が意味を成していて、無駄はひとつたりとも見あたりません。じっくり詳細に読まないと、作者の意図がわかりません。というより、しっかり読んだとしても、よくわかりません。そもそも前述したような補足資料がないと、十分に理解できないことを承知で書いているふしもあります。それほど、ストーリーとしては淡々と静かに流れているのです。. 私は二十歳、高等学校の帽子をかぶり、紺がすりの着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけ一人、伊豆の旅に出かけた。 道がつづら折りになって天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が強くなってきた。天城峠の北口の茶屋に辿り着いて、期待通りに旅芸人の一行に追いついた。 茶屋の入口に突っ立っていた私に、旅芸人のひとりの踊子が座布団を進めてくれた。煙草を取り出すと、煙草の盆を引き寄せてくれた。踊子は古風な不思議な髪を結っていて、卵形の凛々しい顔を小さく見せながら美しく調和していた。 私は、それまでにこの踊子たちを二度見ていて、湯ヶ島へ来る途中、湯川橋の近くで会い旅情が自分の身についた。それから湯ヶ島に流して来た。そこで明日は天城を南に越えて湯ケ野温泉へ行くのだろうと想像し、天城七里の山道の茶屋でぴったりと落ち合ったのだった。. 「伊豆の踊子」では修善寺、湯ヶ島温泉とすごした主人公がある期待を抱きながら天城トンネルに登ってきます。 「.

この話を、すごーく簡単に説明すると、こんな感じです。 旅の途中にたまたま見かけた、旅芸人一座の中に、かわいい「踊子」がいて、主人公は彼女にほんのりとした恋心を抱いた。 一座と同行するうちに、「私」は自分の孤独なゆがんだ心が癒されていくのを感じる。娘盛りだと思っていた踊子は、まだ14歳の子供で、その美しさ、純粋さに胸を打たれる「私」だった。 旅費がなく、別れのときがきて、「私」は、東京へ帰ることになった。. 伊豆の踊子(1974)の映画情報。評価レビュー 89件、映画館、動画予告編、ネタバレ感想、出演:山口百恵 他。 原作はノーベル賞作家川端康成の同名小説で、映画化は今作品で6度目。. 『伊豆の踊子』年11月10日 『伊豆の踊子』あらすじ 大学教授の川崎は、教え子である男子学生から或る相談を持ち込まれていた。 それは「結婚の仲人になってほしい」という話だったが、学生結婚というものに少々の不安や心配を持つ川崎教授は躊躇を覚える。.